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映画『シン・ウルトラマン』 評価・感想 「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」

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概要

日本を代表するSF特撮ヒーロー「ウルトラマン」を、
「シン・ゴジラ」の庵野秀明と樋口真嗣のタッグで新たに映画化。
庵野が企画・脚本、樋口が監督を務め、世界観を現代社会に置き換えて再構築した。

「禍威獣(カイジュウ)」と呼ばれる謎の巨大生物が次々と現れ、
その存在が日常になった日本。
通常兵器が通じない禍威獣に対応するため、
政府はスペシャリストを集めて「禍威獣特設対策室専従班」
=通称「禍特対(カトクタイ)」を設立。
班長の田村君男、作戦立案担当官の神永新二ら禍特対のメンバーが日々任務にあたっていた。
そんなある時、大気圏外から銀色の巨人が突如出現。
巨人対策のため禍特対には新たに分析官の浅見弘子が配属され、
神永とバディを組むことになる。

五段階評価

★★★★★


合う人・合わない人


短評

庵野秀明樋口真嗣を始めとした、『シン・ゴジラ』の制作陣が送る、名作特撮作品の現代風リブート映画第二弾。

初回鑑賞時は知らなかったが、どうやらストーリー自体は初代ウルトラマンの一部エピソードからほぼそのまま借りてきて、現代風にアレンジしたようだ。

筆者はウルトラマンシリーズをほぼ観たことなく、特に初代ウルトラマンに関しては知識皆無だ。しかしそのような筆者が、このような原作リスペクトに溢れた作品を観ても、やはり大きな感動を覚えた。

ストーリーこそ初代リスペクトのものだが、キャッチコピーである、「空想と浪漫。そして、友情。」が示す通り、本作は理知的な部分として、「なぜウルトラマンは人間から巨大化できるのか」「なぜ短時間しか戦えないのか」「なぜ怪獣や外星人が地球に現れるのか」といった、言ってしまえば大人の事情による設定をしっかり理由付け、立派なSF作品として仕上げつつ、感情的な部分として、「なぜウルトラマンは自分の身を削ってまで人類を守るのだろう」という命題に集中し、人間と融合したウルトラマンの考えや変化をしっかり描写し、観客を感動させる作品に昇華した。

ウルトラマンの最後の決断を知った時、もう一つのキャッチコピーである「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」を真に理解した時、君も筆者のように涙を流すのだろう。


感想(※ネタバレあり)

『滅ぼすに値するよ』

本作に対する感想として、割と多くの人が「禍特対メンバーの活躍や神永(ウルトラマン)とのコミュニケーションがあまり描写されていないため、ウルトラマンが人間を好きになる説得力が足りない」という批判をあげている。

素直に言うと、筆者も初回鑑賞時では同じような感想を抱いていた。

もちろん、作中には人間の能力・価値・善性に対する描写がないわけではない。

浅見は有能描写が多く、神永と一番理解しあっている人間であり。
船縁は全人類が絶望している中ただ一人可能性を模索し続けていて、神永の期待通り滝を激励。
滝は人類の叡智を集め、ゼットンを打破できる唯一の方法を見つけ出し。
田村に至ってはウルトラマンが犠牲になると聞いた瞬間、その案を却下すると即答した。

しかし上記からわかるように、こういった描写は主に禍特対メンバーに対するものであり、
それ以外の人類に関してはむしろ悪性についての描写が多い。

民衆は禍威獣やウルトラマンをただの娯楽として消費し、
ウルトラマンの正体暴露動画を拡散しただけでなく、
巨人化した浅見の動画も大量にアップロードし、メフィラスにすら「下劣な輩」と言わせた。
政府関係者はいとも簡単にザラブに騙され、ウルトラマン抹殺計画に同意するし、
その後も懲りずにメフィラスと密約を交わし、
しまいには太陽系滅亡の瀬戸際に、ウルトラマンを政治交渉の材料にしようとした。

最後の行動を受け、神永も思わず「ゼットンより早く人類を滅ぼす」という脅しに出てしまったように、
少なくとも作中の人類描写を見た限りでは、人類を滅ぼすのに十分な理由はあっても、
身を削って勝てない戦に挑んでまで人類を守る理由はないように見えた。
圧倒的に高い技術力を持ち、人類以外にも多数いる知的生命体を認識している外星人視点ではなおさらであろう。


『私も、現生人類が好きなんだよ』

そこで、さらに試金石として現れたのがメフィラスである。

ザラブはウルトラマンとの単独会話になった瞬間、人類を見下していること、
さらには絶滅させようとしていることを表明したが、
メフィラスはウルトラマンとの単独交渉になってなお「人類が好き」と主張した。
それがただの嘘ではないことも彼の行動や設定からわかる。
なんなら実際人類文化をウルトラマンより遥かに馴染んでいる。

メフィラスの提案は、自分を独裁者の位置に置くこと、
そして人類をリソースとして利用することといったズルさはあるが、
人類を他の外星人から守る手段としてはウルトラマンのやり方より有効であり、
さらに人類現行の法律や文化に本当に変化を加えないだろうことから、
かなり魅力的なものである。

そこでウルトラマンは葛藤したはずだ。
自分が今まで単純に出現した禍威獣や外星人を倒してきたこと、
そしてこれからもそのように人類を守っていくことは、ただの独りよがりではないのか。
自分が今人類に抱いている感情は、メフィラスの言う「好き」とはどう違うのか。

ウルトラマンが最終的にメフィラスに叩きつけた理論武装は、
「恐怖による支配は人類の自然発展に害する」、
そして「私の中にある人類の意志だ」だったが、
それこそはウルトラマンの感情を紐解く鍵であるのだ。


『あえて狭間にいるからこそ、見える事もある』

ザラブは人類を害虫として扱い絶滅させようとし、
メフィラスは人類を気に入り管理しようとしたが、
この両者にはれっきとした共通点があり、
それが「視座の違い」である。

人間と似たような姿で現し、同じ言語を語るため、忘れがちなのだが、
地球人類が嫌いだろうが好きだろうが、
彼らが持つその感情は、決して対等の存在に向けたそれではなく、
人間が害虫(そのまま)や犬猫に対する感じるものに近いのであろう。

上位存在の視点から見るとこれはむしろ当然で、
害虫を駆除するために虫になる意味はないし、
猫を愛でるためわざわざ猫になるのはどう見ても狂人だ。
そういう意味では、「猫」一匹の命を奪った罪悪感はあったかもしれないし、
自分より弱い存在のために自らの命を投げ出す知性生命体に対する好奇心もあるだろうが、
デメリットだらけだけでなく、禁じ手でもある「人間との融合」を選択したウルトラマンは、
作中外星人からしてみれば物好きな狂人以外の何物でもないのであろう。

しかし、この理解不能な行動のおかげで、
ウルトラマンは唯一人類と同じ視座を獲得しえた外星人となった。
融合後も神永としての仕事をしっかり遂行したところから見た限り、
ウルトラマンは光の星の使者としての知識や自我を保ちながら、
その同時に人間である神永の記憶・技能・人格も利用可能のように見える。
しかし、これだけのスペックを抱えながら、ウルトラマンが取った行動は、
「人類を理解しようとする」ことのみだった。
基礎的な概念も恥ずかしがらずに(禍威獣を倒した後はちょっとはにかんだのに…)バディに質問し、
古今東西の本を読み漁るその姿には上位者の面影などなく、
ただただ謙虚な求道者そのものだった。


『そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン

上位存在という檻から解放され、人類との対等性を手に入れたウルトラマンが、
ついには多くの人間すら理解できていない「対等の愛」へと至った。

悪性が善性を上回れば、嫌悪すべきなのか?
それでは害虫と何の違いがあるのだろうか?

価値があるから、「好き」と宣ってもいいのか?
それが家畜やペットに対する好きではないと、どうして言えるのだろうか?

ウルトラマンは、好奇心により人類と出会い。
ともに時を過ごし、理解を深め。
相手の善性も悪性も受け入れ、ただただその自由を願い。
相手を危機から救うため、ボロボロになるまで戦い。
それでもなお相手の可能性を信じ、相手の為に命の危険を犯し。
最後に奇しくも相手との出会い同様、自分より弱い存在のために命を犠牲にした。

最初の自分から不思議に見える自己犠牲の境地までたどり着いたウルトラマンのこの気持ちは、
「真の愛」以外の何物と言えよう。

最後まで、ウルトラマンは自分の口から、人類が「好き」だと、一度も口にしたことはなかった。
三者の目が介在しえない、ゾーフィとの最後の会話の場においても、
ひたすら「小さく群れる存在」を理解したい、守りたいと願った。
そのような姿を見ても涙を流さないことは、筆者にとって到底無理な話だ。


『痛みを知るただ一人であれ』

本作の魅力的な箇所はほかにももちろん多々あり、筆者がより特撮に詳しいのであれば、
各禍威獣や外星人の設定やアクションなどについて長々と語っていたかもしれないし、
より映画に詳しいのであれば、本作の制作手法などについて語っていたかもしれない。

しかし今の筆者には、このウルトラマン
この唯一人の痛みを理解した外星人、
この人類が背負うべき痛みを一身に引き受けたヒーロー、
この愛されるべき人間の物語を知り得たことが、
何よりの収穫だった。

さらば、ウルトラマン